「障害者差別解消法」制定の狙いと経緯
元内閣府障害者政策委員会差別禁止部会 副部会長
特定非営利活動法人 日本アビリティーズ協会 会長
一般社団法人 障害者の差別の禁止・解消を推進する全国ネットワーク 会長
伊東 弘泰
障害者差別解消法、制定までの経緯
2013年6月、「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」(以下 障害者差別解消法)が国会で成立した。1990年に米国で障害者差別禁止法(Americans with Disabilities Act of 1990:ADA)が世界で最初に制定され、その後EUをはじめ世界中で差別禁止法がつくられていった。当時、日本においても障害者団体などが中心になり、運動がなされた。しかし、その力は弱く、日本では無理なのか、という思いで、障害当事者の希望と期待は消えかかっていた。
2001年8月、国際連合(以下 国連)は日本政府に対して、差別禁止法を制定するように勧告した。しかし、当時の小泉純一郎政権は消極的なようであった。一方で、厚生労働省は財源を理由に障害者福祉を介護保険と統合することを進めていた。自立支援のプログラムが不十分な介護保険に障害福祉が統合されることは、心身に障害のある人の人生が制約されることになる、という危機感から、2001年12月に全国的組織の障害当事者12団体が中心となり、「障害者差別禁止法を実現する全国ネットワーク」を結成、運動を開始した。日本障害者協議会(JD)、障害者インターナショナル(DPI)、日本障害フォーラム(JDF)などの障害者団体、そして日本弁護士連合会も運動を強化していった。
▲障害者権利条約に日本政府も署名 2007年9月28日、国連本部で障害者権利条約に著名する高村正彦外務大臣(当時)。これによって、日本政府はこの条約の趣旨に賛同し、批准する意思を示した。(福祉新聞2007年10月8日号(C)時事)
2006年12月、国連総会本会議で「障害者の権利に関する条約」(以下 国連の障害者権利条約)が採択された。日本政府の対応は遅れたが、2007年9月、高村正彦外務大臣が同条約に署名した。この条約が確実に施行されるには、従来の国内法の見直しが前提だが、政府はそれを行わずに条約の批准を行おうとしていた(2009年3月当時、外務省)。膨大な範囲の国内法をすべて見直すのは困難だが、権利条約の批准のためにも、障害者差別の禁止に関する法律をつくることができれば、それを根拠に国連の障害者権利条約の前提が成立する。差別禁止の法律はそういう意味でも、是が非でも必要であった。障害当事者の運動はいっそう強化されていった。
2009年9月に鳩山由紀夫新政権が発足。かねてから、「政権を得たら、必ず差別禁止法をつくる」と総理はおっしゃっていた。同年11月24日、われわれJDA全国ネットワーク代表団が官邸を訪問、提言書をお渡しした。それは、①障がい者制度改革推進本部の早期立ち上げ、②国連の障害者権利条約の早期批准、③障害者差別禁止法の早期成立、の3項目であった。
▲鳩山総理を囲んで 伊東会長他関係者と
提言は総理の決断につながり、2週間後、総理を本部長とし全閣僚を委員とする、障がい者制度改革推進本部の設置が閣議決定され、制度改革が開始されることになった。 その結果、2010年に障害者基本法の改正が、また2012年に障害者総合支援法への改正が行われた。障害者差別の禁止に関する法制度の検討は、2010年11月から内閣府に差別禁止部会が設けられ、憲法学者としても著名な棟居快行部会長、また日本弁護士連合会の竹下義樹弁護士と私が、副部会長に選任され、法律学者など20名余の委員が任命されて、検討が開始された。部会は2012年9月まで25回、延べ100時間の議論がなされ、まとめられた部会意見書はA4版で90頁にのぼり、中川正春国務大臣(当時)に同月、手渡された。その後、政権が再び変わり、一時は国会上程からはずされるかもしれない状況となった。しかし、与・野党の間で調整がなされ、法律名は、障害者差別解消法と変えられたが、2013年6月に国会で成立した。これにより、国連の障害者権利条約批准の段取りが整い、2014年1月国会で批准決議、2月正式に批准が発効した。
▲2013年6月4日、参議院議員会館講堂にて
日本弁護士連合会主催で自・公・民の当該各プロジェクト代表の方々が法案成立に向けて強く発言された。右から自民党・衛藤晟一内閣総理大臣補佐官、公明党・高木美智代国会対策委員会 副委員長、中根康浩民主党衆議院議員、コーディネーターの野澤和弘毎日新聞論説委員
なぜ障害者差別解消法が必要なのか
社会一般に、「障害者の福祉施策は遅れている」という認識はある。しかし、「差別を受けているか」、と問われると、障害当事者でさえも「さて、どうかな?」と考え込む。たいていの人は、障害者が社会で「差別」されている、している、と思ってはいない。
障害があるためにできないことがたくさんある。でも仕方がない、というあきらめのなかで当事者は生活している。実は障害があって参加できない、行動できない、そんな日常生活のなかに、「障害を理由とする差別」が存在している。「国民としての権利」、「基本的人権」さえも行使できないことがある、という状況に気づくべきであったのだ。
国が差別の禁止に関する法制度の整備について本格的な取り組みに入ったのは、前述のとおり、2009年の政権交代の後である。ある意味で、2007年の「高村外務大臣の署名」の決断と、2009年の「鳩山政権における閣議決定」は、わが国の「障害者」の地位、そして国、社会の対応のあり方を、根本から変えていこうとする理念と方針を明示した記念すべき日といえる。何が変わったのか、それは次の2点である。
第1点、従来の障害者施策は、「福祉制度」を充実して障害者を救済する、支援するという社会保障の理念を主体として形成されてきた。しかし、それだけではなく、障害のある人も一人の国民として基本的人権を保障されるべきであること、同じ国民として社会生活において、「完全参加と平等」を確保されるべきであるという理念が明確に打ち出されたことである。たとえ、心身に何らかの障害があったとしても、障害のない人と同様に教育、医療、雇用その他の機会が得られ、国民として、権利と義務を行使できる立場、状況が確保されるべきである、すなわち、まず「人権問題」として対応されるべきであるとの考え方に変わったのである。さらに障害、あるいは障害による何らかの負の部分があれば、それは「福祉」で補う、支援するということが明確にされた。
第2点、これまで障害者制度や施策は、障害当事者の意見をほとんど聞くこともなくつくられ、対応されてきた。しかし、これからは「障害当事者の意見を抜きにしてはならない」という意識、認識であるべきという考え方ができたことである。
国連での「障害者権利条約」の審議・議論の段階では、世界中の多くの障害者団体がいろいろな形で意見表明をし、それが条約に反映された。そのスローガンは、「私たちを抜きにして私たちのことを決めないでください」(Nothing about us without us.)であった。これは今や世界で当然のことと考えられるようになったのである。
私の「差別」体験
私は1歳のときにポリオに罹り、下肢麻痺の障害者となった。これまでの私の人生は、障害がある故にいろいろな問題、困難、そして、普通とは異なる周囲の対応、待遇などにより、あるときは「便宜」が図られ、あるときは「差別」を受けてきた。私は自分が望んで障害者になったわけではない。しかし、からだに障害があるということで、他の人たちと異なる対応を容諾しながら生きてくるしかなかったのである。
障害者の多くは歯を食いしばり、我慢しながら,人生をやってきている。障害があるがゆえに、さまざまなチャンスを得ることもできずに、遠回りをしている。あきらめるか、我慢しながら過ごしている。1回しかない人生なのに、である。
小学校入学の直前に、母は私を連れて入学予定の学校に相談に行った。「就学猶予・免除という制度があるから、学校に来なくてよい」と校長は母に言ったという。6歳だった私はそのときの情景を今も記憶している。
都立高校では、合格発表のときに別室に呼ばれ、学校側から私のからだについてこと細かく聞かれた。卒業後に恩師から初めて聞いたのだが、合格判定の職員会議で、体育の教師が「体育の実技が受けられない生徒には単位をやれないから、入学させるべきではない」と声高の発言があり、それが結論となりかけた。しかし、最後にK先生が立ち上がり、「体育の実技ができないという理由だけで教育の機会を奪ってよいものか」と、これまた声を大にして、演説のように発言されたそうだ。それで会議の空気はがらりと変わり、私は「入学」を許されることになったことを高校卒業後に聞かされた。K先生には、私と同年代の、障害のある息子さんがいらしたのだった。私はK先生によって救われた。もし、K先生がそこにおられなかったなら私は予定の高校に入学できなかった。出会った人、そのときの場面によって結果が変わってしまう。そんな偶然性の世界に身を任せて幸運、不運に立たされる。それが障害のある人たちのこれまでの運命であった。
さらに、私の人生に決定的に影響を与えた出来事があった。就職に際して、志望する企業に送られた書類は試験の前に返送されてきた。障害者は採用しない、という明確な理由であった。これは「直接差別」である。書類を送る前に電話で志望先に問い合わせもした。しかし断られた。それは100社を超えた。
「障害者でもできる」ことに挑戦
1966年に大学を卒業、すぐに障害のある人たちに呼びかけ、4月、日本アビリティーズ協会を設立した。「保障ではなく、働くチャンスを!」をスローガンに、障害者自らが協力して働く場をつくろうと運動を始めた。2か月後の6月、障害者を中心に5人を雇用し、印刷会社を設立した。「会社」といっても、和文タイプが3台、小さな電動の輪転機が1台、中古の断裁機が1台という零細印刷所だった。今から49年前、現在のアビリティーズ・ケアネット株式会社の創業であった。
お客様の開拓は当然にして困難だった。障害者の素人集団に満足な仕事ができると、誰も受けとめてくれなかった。たしかに、職業訓練校で印刷の仕事を習得したという障害のある従業員たちの拙劣な技術は「売り物」として通用せず、技術レベルを引き上げるのに大変苦労した。赤字が続き、倒産寸前まで追い詰められたのは一度や二度ではなかった。しかし、不思議に道は拓かれた。
創業して5年後、労働大臣にお会いする機会が到来した。淡路島出身の衆議院議員、故・原健三郎氏であった。大臣は私の話に耳を傾けてくれた。障害者が一般企業に就職できない現状、しかし障害があっても職業能力を持っている人はたくさんいること、そして、障害があってもあたりまえに働けるよう法律を整備していただきたいこと、などであった。できる、というその証明として、アビリティーズの5年間の印刷事業の成果を説明した。大臣は、局長、審議官、課長などを呼び集められ、最後に、「障害者の雇用対策を検討せよ」と大臣指示が私の目の前で出された。
それから4年半後の1975年10月、国会に提議され、成立した。翌76年4月施行され、現在の雇用率制度をふくむ、雇用促進施策が始まった。
▲労働大臣室。右が原労働大臣、左が道正官房長(当時)、中央、背が伊東会長
憲法で保障されていても、実は「保障されていない」現実
今なぜ差別禁止法なのか、もちろん、憲法ではすべての国民に対して、「人権の尊重」を明確に保障している。とりわけ第11条、13条、25条では人間の尊厳と人権を保障している。将来も現在も、国は国民に「基本的な人権」と「生存権」を保障している。
14条は国民は法の下に平等であり、差別されない。
15条はすべての成人に選挙権を保障している。しかし、現実には多くの障害者が投票に行けない。視覚障害者の場合には文字による選挙公報では、候補者の情報を直接に得ることができない。憲法で保障されているはずなのに「選挙権」を行使できない国民が現におり、それが放置されているのである。
26条では、国民は教育を受ける権利が保障されている。しかし前述のとおり、私は就学猶予・免除、「学校に来なくてよい」と言われた。
全員就学制度が1979年から始まった。しかし、障害のある児童は近くに普通校があっても、自宅から遠く離れた特別支援学校に行くことを「指定」される。
憲法27条では、国民には労働の権利が保障されているが、障害者の多くはその機会を得られていない。
裁判規範性のある差別禁止の法律が必要
2011年7月に障害者基本法が改正された。改正以前は「障害者の福祉の増進」を目的としていた。改正後は、「個人として尊重され、共生する社会を実現すること」を目的とした。「基本的な国民の権利」として、障害者基本法を位置づけたことが、改正の大きな意義の一つである。
憲法に明記されているにもかかわらず、教育や労働、選挙などにおいて、それを行使できない人たちが現にいる。憲法や障害者基本法を頼りに裁判所に訴訟を起こし、権利を回復しようと努力をしてきた人々がたくさんいる。しかし、こうした申し立ての多くは認められておらず、裁判では門前払いまたは敗訴となっている。
それはなぜか?憲法や障害者基本法は裁判規範性のない理念法だからである。前述のとおり、憲法で人権や権利を国が国民に約束しているからといっても、訴訟では勝てない。司法判断の根拠とならない。そこで、裁判根拠、裁判規範性のある「差別を禁止する法律」が必要なのであった。
差別禁止法制定への運動
自治体においては、千葉県の堂本暁子知事(当時)自らが中心となり、国に先駆けて障害者差別禁止条例の制定に取り組み、2006年10月に千葉県議会は全会一致で条例を制定した。その制定に至るプロセスでは、県内30か所以上で知事自ら出席して、タウンミーティングを開催するなど、県民参加型の集会を行った。そのなかで、差別を受けた事例として約800のケースが報告された。千葉県での制定は他の自治体にも影響するところとなり、これ以降、いくつもの自治体で条例が制定されている。
障害者差別解消法のねらい
障害者差別解消法のねらいの1点目は、差別の解消に向けた取り組みを重要視しており、障害者の日常生活において社会的な障壁をなくすことである。
2点目は、差別に対し罰則を与えることではなく、共生社会の実現のための共通ルールを明確にして機能させようということである。そのために何が差別にあたるのかを明確にするとともに、法的に保護することを目的に、法律的根拠を明確にすることである。
3点目は、高齢者人口が3,000万人を超え、今後もなお増加する日本の社会において、障害者の差別の解消とともに、心身が衰えてくる高齢者を含めての社会全体を、元気で楽しく暮らせるように変えていこうとするものでもある。
4点目は、差別の防止の啓発、相談体制を整え、また紛争の防止および調整の体制の整備である。
法律はできたが、現実的には、相談や調整、紛争などの場面を通しながら、具体的に明らかにしていかねばならないことが多くある。
例えば、「差別の定義」、「差別の形態」、差別をなくすための「合理的な配慮」などの定義や基準を明確にすることは、今後時間をかけながら、国民的意見合成が必要である。
さらに合理的な配慮のために、あるいは差別をなくすために、ある場合、ある状況においては「過度の負担」になるが、過度の負担とは何か、過度の負担の場合にはどうするか、ということについても今後、ケースの積み重ねによって明確にされるであろう。「不均等待遇」についても同様である。
▲2012年9月20日、内閣府大臣室にて意見書を報告。
右より、園田康博政務官、中川正春内閣府特命担当大臣、(いずれも当時)。中央:棟居快行部会長、その左:伊東弘泰副部会長、左:東俊裕担当室長 後方萩原当協会副会長
合理的配慮・国、地方公共団体等に「義務化」、民間は当面「努力義務」
前述した内閣府障害者政策委員会差別禁止部会での検討では、法律は、「障害者差別禁止法」とされることを前提とされていたが、最終的に国会上程段階で「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」(障害者差別解消法)とされた。
この法律は、障害者基本法第4条の「差別の禁止」の規定を具体化する立法として位置づけられている。すなわち、
- 1.障害を理由とする差別等の権利侵害行為の禁止
- 2.社会的障壁の除去を怠ることによる権利侵害の防止
- 3.国による啓発・知識の普及を図るための取り組み
をもって、差別の禁止という基本原則を実現しようとするものである。
基本的な考え方として、作為による差別にかかわる「差別的取扱い」と不作為による差別にかかわる「合理的配慮の不提供」の禁止規定が示されている。
義務づけの対象は、「国の行政機関や地方公共団体等」に法的義務を課し、「民間事業者」には当面、努力義務として規定された。国公立の学校・福祉施設等には法的義務が課される。
雇用分野については、障害者雇用促進法の改正により、事業主に対して「差別の禁止」と、「合理的配慮の提供」が法的義務とされる。
法律は2016年4月より施行される。また、施行後3年をめどに必要な見直し検討をすることとされている。
伊東 弘泰
東京都出身。1歳でポリオにより下肢障害となる。1966年早稲田大学卒。同年4月「保障より働くチャンスを!」と宣言し、アビリティーズ運動を始める。4月、日本アビリティーズ協会(現 NPO)を設立。6月、障害者による障害者のための株式会社(現 アビリティーズ・ケアネット)を設立、重度障害者を中心に6人で印刷業を創業。
障害者の雇用、社会参加のために福祉用具の開発、普及を図るため、1974年7月、福祉用具・リハビリ機器の開発、販売、輸出入事業を開始。
1999年よりデイサービスセンター、有料老人ホーム、リハビリセンター、クリニックなど各種福祉・医療施設を運営。
2013年より川崎市ウエルフェアイノベーション協議会副会長。2004年から2012年まで早稲田大学人間科学学術院客員教授。2015年中国・烟台大学文経学院客員教授就任。
1987年総理大臣表彰、2001年デンマーク国・王室ヘンリック皇太子栄誉章並びに企業家連盟ディプロマ授賞。
特定非営利活動法人 日本アビリティーズ協会 会長/アビリティーズ・ケアネット株式会社 代表取締役会長兼社長/元内閣府障害者政策委員会差別禁止部会 副部会長/一般社団法人 障害者の差別の禁止・解消を推進する全国ネットワーク 会長/特定非営利活動法人 福祉フォーラム・ジャパン 副会長